連載 < インスリン発見物語 >

連載に向けて(その2):人類そして生物の進化と糖尿病の歴史


現代人の進化:

人類が糖尿病と出会ったのは何時ごろであろうか?
現在の人類Homo sapiens sapiensは、遠くアフリカの地に今から40万年前(もう少し古いとの考えもある)に誕生した祖先から、紆余曲折を経て誕生してきたことは、化石や遺跡から推測され、今のアフリカ東部を起源とする考えが大勢を占めているようです。
類人猿のような木の実を主食とする生活から、サバンナに出て、菜食から狩りをする肉食に変わり、石器を利用するようになり、集団を作り、集団がより多くなると、より多くの食料を効率よく得るために、大型の動物の狩りが必要となってきました。
やはりアフリカを起源とする象を追って北に進み、象達は寒冷に適応するようにマンモスに進化したと考えられ、シベリアに足を踏み入れました。
マンモスは食糧と同時に、その皮や骨は衣服や住居としても利用出来る貴重な、生活に欠かせない動物でした。
彼らは生きてゆくために、その追跡は更に東へと進みました。
シベリアを東に進まない集団もあって、途中で南に進む集団にも分かれました。
当時は氷河期でしたので、地球の海面は今よりも低く、今の日本海は内海状態で、日本列島は北の北海道、樺太、西の朝鮮半島は陸続きでした。
その北、或いは西の道をたどって、日本列島にたどりつき定住した人々が縄文人ではないかと考えられています。
彼らは、今の中国大陸でそのあと変異した新モンゴロイドと成り、古い形質のモンゴロイドとは異なった遺伝子背景を持ちました。
例えば、アセトアルデヒド脱水素酵素の有無では、新モンゴロイドでは欠損者が多く、後者のそれは、少ないことが知られています。
その遺伝子が、現在の日本列島に住む人々のお酒に対する、下戸、上戸の差を支配しているとされています。
一方、更に、シベリアの東の果てまで進んで来た集団は、当時、今のベーリング海峡は氷で覆われていて、べーリンジアと呼ばれ、歩いて渡れたので、マンモスとともにその後を追って、今の、北アメリカ、アラスカの地に到達しました。
北アメリカには、マンモスを大量に谷間に追い落として捕獲したと思われる遺骨の跡が発掘されていて、遂に、ここで、マンモスを絶滅させた歴史が刻まれています。
マンモスを見失った彼らは、残された大型動物を追って南に下り、数種類の大型動物を絶滅させながら、約1000年後には、南米の最南端に達したことが、多くの遺跡から明らかにされています。
彼らは古い型のモンゴロイドに遺伝子を持ったアメリカ先住民のインディオで、インカ帝國なども築いた人々です。
当然、アメリカ大陸に最初に渡ったのは、大西洋を船で渡ったコロンブスではなく、シベリアからべーリンジアを歩いてきた、アメリカ先住民の先祖であることは明白です。
当時の彼らは、飲まずく食わずで歩き、糖尿病から考えると、食事療法と運動療法をしていた優等生であったと思われます。
しかし、その子孫で、現在、ピマに暮している先住民は、アメリカ風の食生活をすることで、高率に糖尿を発症することで研究の対象になっています。
彼らは、その辿ってきた道から見ると、縄文人と同じ祖先をもっていることになり、その縄文人の子孫の遺伝子は、我々の周囲の、お酒に強いアセトアルデヒド脱水素酵素を持った人々の中にも含まれているはずです。
今、日本人には、和食から洋風の食事に変わるとともに、糖尿病が多くなっていますが、歴史、人類学的に同じ遺伝背景を持つ、ピマのアメリカ先住民の人々の肥満糖尿は、他山の石ではないと考えられます。
恐らく、これらの古型のモンゴロイドの人々で、ある程度飽食が可能な人は糖尿になったのではと推定されるのです。


  人以外の動物の糖尿病:

人類ではなく、自然界の動物にも糖尿病が存在する物があり、多くの糖尿モデル動物が飼育されています。
ペットや動物園などでも、十分な餌で長期飼育されている場合は、野生の場合よりは肥満糖尿が発症しやすいようで、最近ペットや動物園の高齢動物で、糖尿が増えているとの報告が見られます。
以前、動物では、カバに糖尿が多いと書かれたのを読んだことがありますが、その体型から、メタボリックシンドロームを思わせます。
高血糖、即、糖尿病ではなく、鶏の血糖は200mg/dlでも、糖尿病と誰も思わないように、高血糖が存在して、それによる二次的な障害、合併症がある場合に糖尿病というのではないでしょうか。
人の場合には、世界的に糖尿の診断基準があって、空腹時血糖や糖負荷試験の成績から共通した値で、統一した評価をされています。しかし、ラットやマウスで、多くの糖尿モデルが報告されていますが、残念なことは、実験動物には、糖尿に関しては世界的に共通した評価基準がないことです。
今一度、動物の糖尿、糖尿病とは何か、その研究に適したモデル動物とは何かを考える必要があると思われます。
 人では、世界的に診断基準が決められ、診断に大切なのは血糖ですが、治療などの立場からインスリンの必要性が重視されて、1、2型に大きく分けられています。
インスリンの測定が可能になったのは戦後で、日常臨床的に行われるようになったのは、酵素抗体法が確立された比較的新しい時期と言えますが、血糖の測定は戦前からおこなわれていました。勿論、今のような簡単酵素法を利用した測定器はなく、化学的に還元法で測定し、必要血清量も多く、精度や方法にも問題がありました。


歴史に見られる糖尿病の記載:

糖尿病に関しては、糖尿と言われるように、古くから知られて、糖尿病の患者さんの尿には蟻が集まるとか言われ、中国では甘い尿の多尿疾患のあることが8世紀には記載されています。
イギリスでは、17世紀にThomasWillisが糖様物質を患者尿に発見、M,Dobsonがそれを取り出すことに成功しましたが、当時は、糖は病態生体からの異常物質のように思われていたようで、結果ではなく原因のように思われていました。
しかし、1827年W,Gmelinらが、澱粉が消化管で糖になって吸収されることを明らかにし、1857年C,Bernardは肝にグリコーゲンが含まれ、それが糖として、血液に放出されることを明らかにして、糖は病的な異常代謝物でなく正常な生理的物質であることが明らかにされた歴史があります。
以前、1型は小児糖尿病とも言われ、若年者に多く、2型は成人に多いとされて、その様な分類をされたこともあり、前者はインスリンが必要で、恐らく、インスリン発見以前では生存が不可能であったと思われ、他の小児疾患とされていたかもしれません。
後者は成人の肥満者に多く、贅沢病と考えられ、日本でも戦前では必ずしも多い病気ではなかったようで、両者ともに古くから存在していたと思われます。
世界で初めて、インスリンの治療を受けたトンプソン君は勿論、当時インスリンの測定は行われていませんが、その臨床症状やインスリンを投与された後の効果などから、1型であったことが推定されます。
彼は既にこの世を去っていますが、その膵が今も残されているとのことで、病理組織検査が行われればさらに明らかになると思われます。
一方、日本の糖尿家系として有名なのは、“この世をば、わが世とぞ思ふ望月の、欠けたることのなしと思えば”と、我が世を謳歌した藤原道長の一族です。
平安時代は中国からの医学が主流で、多尿を主訴とする病は“消渇”と記載されていました。
現在、糖尿はDiabetesとして広く記載されていて、例えば、アメリカの糖尿病学会誌はDiabetesであり、ヨーロッパのそれは、Diabetologia です。
糖尿病の学名は“Diabetes mellitus”です。Diabetesはサイフォン、多尿を意味し、mellitusは甘いという語であるので、直訳すると甘い多尿です。
今一つのDiabetesには、D、insipidus,即ち、薄い多尿、尿崩症という、血糖正常の多尿が存在することで、後漢時代に中国のヒポクラテスと称された、張仲景が“傷寒論”の中に、多食、多飲、多尿の疾患を先に述べた“消渇”としていたが、752年にはそれを分類して、尿に甘味のある疾患の存在を記載しているので、この尿所見から、当時、すでにDiabetes(消渇)をinsipidusとmellitusに分けていたことが考えられ、正確な観察と思われます。
この記載の時期から考えると、AD1000年頃の平安時代には、甘い多尿の消渇のあることが認識されていたと考えられます。
藤原道長の兄の道隆は43歳で多飲と瘠せで死亡し、更に、その子の伊周も“日頃水がち”で、37歳に死亡しています。
叔父の伊伊も“水を飲みきこしまし”で49歳に死亡したとの記録が残っています。
これらの記載は多飲が主症状の消渇と推定されますが、末期に痩せてきたことから、現在の医学の知識から推測すると、多飲は尿崩症というよりも糖尿病と考えられ、一族に、この様な類似の症状の患者が観察されることから、遺伝的な要素の大きい2型糖尿と考えられます。
栄華の頂点に居た道長自身も、51歳の時に喉の渇きと、多飲を訴えて、“飲水病”と言われ、糖尿の症状が始まったようです。2年後に胸病に悩まされことが重なったとの記録があり、心臓神経症ではないかと推定する歴史家もいますが、糖尿による動脈硬化、狭心症であったかもしれません。
そして、あの有名な“この世をば、、、、”を詠んだ頃には、視力障害を訴えるようになり、夕刻でも白昼でも、それに関係なく物が見えないとの記録が残っているので、糖尿性の白内障か、網膜症の合併症が起こってきたようです。
61歳になると更に病状が進み、下痢と背中に化膿創が見られ、針で排膿したが、その毒気は腹中に入ってきたとされ、抗生物質の無い時代、多分、敗血症を起こしてきたのではないかと思われ、遂に、この世を去ることとなったのです。
多飲、胸痛、視力障害、化膿と典型的な糖尿病の経過を取っているように思われます。
平安時代の庶民は粗食でしたが、貴族は可なり贅沢な食生活をしていたようで、主食は米で、魚、鳥、野菜が中心で、表向き肉食は禁じられていましたが、薬猟とし、密かに、薬だとして獣肉も口にしていたようです。一日の食事時間は、10時と16時の2食でしたが、宴会は3日に一度はありました。酒は濁り酒で、澱粉が残り、カロリー的には、清酒よりも高いことが考えられます。宴会が終わると、後は牛車に揺られての生活であれば運動不足も加わって、正に生活習慣病の条件がそろっていると思われます。
 目を中国に向けると、唐の玄宗皇帝の頃(750年)の安禄山が頭に浮かんできます。安禄山は胡の人で、西安に都を置く玄宗皇帝に仕官として仕えました。
当時、西安はシルクロードの東の拠点で、国際都市で、西の方から人々が来て、漢人のみでなく、多く外国の人々が街を行き来して活躍し、漢人以外の人も多く、玄宗皇帝に仕えていたことが知られています。
胡は西の国ペルシャを意味する文字で、例えば、“胡の舞い”というのが当時、西安で持てはやされ、スカートの裾を翻して、激しく回転する舞いで、当時の漢人のゆったりとした舞いとは全く異なっていました。
胡の付いた食物も多く、胡瓜なども西の方から来たもので、それまでの中国の瓜とはことなっていました。人のみでなく、生活や、娯楽にも西、ペルシャからの多くの影響がもたらされていたと思われます。
安禄山は胡の人であるとされていることから、漢人ではなく、西の方から来た人だと思われます。私も、西安の西のイーグル自治区に旅したことがありますが、回教徒の人が多く、言葉もアラビア語が多く、空港などにもアラビア語と漢字が併記されていて、人々の外見もモンゴロイドよりもコウカソイド風の人々を多く見るので、安禄山もそのような異国人的な容貌であったのではと推定されます。
彼は、楊国忠が宰相になったのを期に、それを討つとの名目で洛陽を占領し、自ら帝位に就き、国名を大燕(756年)と称したので、玄宗皇帝は西安を逃れ、成都に移りました。その頃の安禄山の体型は、その腹壁が膝にまで達したと記載されていて、日本の“あんこ型”の力士もびっくりのような、超肥満であったと思われます。
洛陽に入った頃には、視力が殆ど無くなっていたといわれ、更に、背に化膿創も出来てきたと記載されていて、体調不良で気が荒くなっていたと思われます。
50歳(757年)の時、就寝中、忍び込んできた賊に襲われましたが、視力が無かったために、剣を取ることも出来ず、暗殺されて、短い権力の座から去っていきました。肥満、視力障害、化膿はやはり典型的な糖尿の経過と思われます。
やはり、日本と同じく、中国でも権力者は糖尿に悩まされて、その座を去らざるをえなかったことは共通しています。古くから、西洋でも東洋でも同じ様に、王様、貴族、権力者の病気として、糖尿病は認知されていたようです。
多くの哺乳動物に、自然発症の糖尿が有ることから、先に書いたような歴史に残る人たちだけでなく、有史以前から、恐らく、ネアンデルタール人、いや、もっと以前の猿人たちも糖尿病に悩まされていたと推定されます。


魚も糖尿病になる

哺乳動物だけでなく、魚類にも自然発症の糖尿のあることを発見したのは、日本の農林省淡水魚試験所の横手氏でした。
戦後の日本は食糧難で、今とは違い、お米の増産が国の方針であり、エネルギー源と同時に、動物性タンパク質の確保も大きな問題で、国民の将来の体力を考え、植物性タンパクよりも動物性タンパクを多く国民の口にと政府は考えました。
動物と言っても牛や豚は大変で、それまで、日本人が親しんできた魚に着目して、水田に鯉の稚魚を放して泳がせることで、その物理的な動きで除草することと、秋のお米の収穫時期になると、稚魚の鯉も大きくなっているので、それを動物性タンパクとして利用するという、一石二鳥を求めた計画を考えました。
農協を通じてそれを推進しましたが、秋に収穫した鯉がやせていて、商品価値のない個体が出るという苦情が寄せられるようになったのです。
それらの痩せた鯉を、業者間では“脊こけ”と呼んでいたようで、その呼び名は、“背筋が痩せこけている状態”というのを短く“脊こけ”と呼んでいたらしいのです。直接見たことはないのですが、鯉は輪切りにすると円に近いのですが、それが鮒を輪切りにしたように扁平ではなかったのかと思うのです。そこでその苦情が寄せられた、農林省、淡水魚産試験所の横手氏は病理解剖を行い、標本を作って精査したところ、哺乳棒物の膵島に当たる、魚類のボルクマン小体に変性が見られ、インスリン分泌不全に因る、1型糖尿病の痩せに相当するものと診断しました。インスリン不足に因る瘠せで、その成因が明らかになりましたが、どうして、ボルクマン小体が変性するのかは、餌なども考えられましたが、結局不明でした。
全ての水田の鯉が“脊こけ”になるとは限らず、逆にその病態の研究にはいつも“脊こけ“鯉が入手できない不便さから、横手氏はそれを再現する目的で、糖尿状態を作るのに当時汎用されていたAlloxanを鯉に静脈内に投与することで、それを再現することに成功し、その病因を確認すると共に、その病理組織的な変化について詳細な観察をし、網膜の変化が人の糖尿性網膜症に近いと注目し、日本の糖尿病学会よりも国際的に注目されていました。私自身も横手先生の直接指導で鯉の静脈内投与法を教えていました。
正常の鯉の血糖値は50mg/dlを切るほど低く、糖尿にしても100mg/dl程度であったことを記憶していますが、網膜の病理組織の方はあまり深く検索を行わず、その方の印象は今あまり残っていません。
今、鯉や魚類の糖尿病を検討している研究者がいられるのだろうかと思います。


生物のエネルギー源としてのブドウ糖

正常の鶏の血糖は200を越え、哺乳動物よりは高く、膵の全摘出を行うと、高血糖を起こすのではく、低血糖を起こすと聞いた事があります。
私自身そのような実験を行ったことはないので、確認していませんが、その原因は鶏の血糖はインスリンで制御されているよりも、グルカゴンで高い血糖値を維持する方が重要なためと考えられているそうです。
鳥は空を飛ぶというために、そのエネルギー源として我々以上に高い血糖維持が必要なのかも知れないと思われます。因みに、空を飛ぶことの多い昆虫の体内ではブドウ糖濃度は逆に0で、では何をエネルギー源にしているかと言うと、最近話題のトレハロースです。トレハロースは加水分解するとブドウ糖になるので、加水分解してブドウ糖にしてから、エネルギー源にしています。
鳥と同じように空を飛ぶという激しい運動のエネルギーとして、鳥は高いブドウ糖濃度を維持しているのに対して、昆虫は加水分解後にブドウ糖になる一段階化学反応の必要なトレハロースをエネルギー源としているのは何か対照的で不思議です。
蛋白質糖化の点から両者の糖を比較しますと、ブドウ糖は単糖で糖化の代表的物質ですが、トレハロースは2糖類で糖化は起こしません。糖化は老化の原因とも考えられています。そうしますと昆虫は老化が起こりにくく、長生きするかと言いますと、蝉等は、夏の1週間で世を去ってゆきます。昆虫で1年以上生きるものはほとんどいません。矛盾を感じます。蝉の多くは幼虫の時期は数年地下に居ます。幼虫もトレハロースです。哺乳動物の胎児期と昆虫の幼虫期と対比できませんが、成虫期と幼虫期の大きな開きはトレハロースと関係があるのでしょうか。





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